壊れかけた人間の見る夢

昔、私が勉強している横で愛犬が床に寝そべって、ぐうぐういびきをかいていた。ときどき体がぴくっと動くき、寝ぼけて吠えたりすることさえある。きっと彼らも夢を見ているんだ! にやにやしながら私は犬が見るだろう単純でかわいい夢の内容について思いを馳せる。

私は多くの人間は夢を見ると思っている。ある意味でそれは正しいのだろう。ある意味で、というのは、最近になって、ほとんどの人間は起きると夢を忘れていることを知ったからだった。私の夢はあまりにも鮮やかで映像的で、本当に体験したことがあるのではないかと自分でも思うほどだ。カウンセラはこんなに夢を語る人間は見たことないといって、かなりおもしろがる。しかし、覚えていない夢を見ることに意味があるのだろうか? 謎だ。まあ、意味がないからといって、寝ることをやめられる人間はいないと思うので、その是非を検討してもしょうがない。

担当医と夢について話した。話を聞いてみると、精神医学的には性格に「人間が夢を見る」ことはないようにとらえられているようだ。つまり、思考の延長として考えられているっぽい。イメージを語るのに、それが思考だというのはわかるような、わからないような。確かに起きたとき、イメージは分裂しているから、それをつなげるのは思考なんだろうな、とは思うけど、一度見たもののようにくっきりしたイメージは思考なのか? よくわからない。無意識で言いたいことがあるならもうちょっとわかりやすい絵にしろよ>自分、みたいな。

仮に夢が思考の現れであるなら、死にまつわる夢をよく見る私は死について考えていると思われる。ある意味で正しい、というかま、日々を生きるってことは常に死ねよ自分と思っているようなものなので。それにも増して、ま、愛とか人生とかについて考えていると言われてみると、あーそうかねえということもない。

キューブラー・ロスだったか誰かが、若くして死んでしまう子どもは霊的に高い思考レベルにある、と書いていたのを思い出す。霊的というと、科学からかけ離れていくようで、私なんかはうへえと思うが、恐らく原著はスピリチュアル的というか、精神的にとか、そういう意味の言葉ではなかっただろうか。死の伝道者/キューブラー・ロス(1987.12)にちょっとそういったことが載っているのだが……実は私も子どもの頃から早死にするだろうな、という思いが強かった。別に大病も何もなかったのだが、大人になる前に怒り狂って我を忘れた父親に殴り殺されるか蹴り殺されて死ぬんだろうな、と薄々感じていた。なので、将来設計をまったくといいほどたてていなかったのだが、何ごともなく成人したとき、私は空虚で何もなかった。自分の手でこれといっていい何かをつかんだこともなく。ただ、快楽だけが大好きで、嵐のように突然襲ってくる暴力をやり過ごしながら早く楽になることを願っている、あほな子どもだった。いつものように体罰を受けた夜、それは珍しく雪の降りしきる12月だったのだけれど、泣きながらメサイアを聴いて、そろそろ逝くかなあとベランダでのんびり寝そべって死にかけていると、父親の体罰を見て見ぬふりをしてきた母親が鼻息荒く私の部屋を訪れて、何を言うかと思えば、これ見よがしなパフォーマンスをするなと怒りなじり、そのまま去っていった。今思えばあのころに両親を見限っていれば良かったっていうか実際あのとき人生を見限っても良かったんじゃねーかと思うが、それでも死を受容することはできなかったな。まあ、女性は鬱病罹患率が男性に比べて高いのにもかかわらず、自殺率は低いわけで、なかなかエイヤッと勢いよく死ぬわけにはいかないんだよね。

なんか話がそれたな。

でも、ま、あのころの生活は命を脅かされていたようなものなので、死について考えているということでは、普通の人間よりは霊的に高いレベルにいるのではなかろうか。でも、そんな能力いらんよ、というか霊的に高いレベルになって壁に蝶々とか書いても全然救いにならんだろうよ。